ふわふわな日記

映画『五等分の花嫁』感想:過去と今、そして繋いだ未来のその先へ

映画『五等分の花嫁』 感想

映画 五等分の花嫁 感想 ネタバレ注意

大変ご無沙汰しております。

 

ここ最近ブログの更新が出来ずにいたのですが、今日は待ちに待った『五等分の花嫁』の映画を観に行ってきたので、少しでも今の気持ちをブログに綴っておこうと思い、こうして急遽筆を執ることにしました。

 

なんというか、まずは本当に「懐かしいなぁ...」っていう気持ちで一杯です。毎週水曜日になると『五等分の花嫁』が読みたくなって、毎週続きが気になってドキドキワクワクして、読み終わった後は感想を書いたり一日中余韻に浸ったりする。そんなあの頃の感覚がなんだか鮮明に蘇ってくるようで。

 

連載が終わってからのおよそ2年間、時間を忘れるくらい色々なことがあったはずなのに、それでも『五等分の花嫁』を毎週楽しみに読んでいたあの頃の思い出が消えることはないんだなと、この作品と共に駆け抜けた日々はいつまでも胸の中に残り続けていくんだろうなと、改めてそんなことを再確認できた映画になってくれていたと思います。

 

既に細かい内容は原作のレビューで書いていますので大枠の簡易的な感想になりますが、以下、今回の劇場版の内容に触れつつ今の気持ちを書いてまいりますので、是非劇場で視聴を済ませてからお読みいただければ幸いです。

 

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映画『五等分の花嫁』を観て感じたこと

 


 

さて。今回の映画では、原作でも最終盤と言える学園祭をメインに据えた「第11巻~第14巻」の内容がベースとなって物語が構成されていました。尺の都合で一部カットされた部分がありつつも大筋に変更点はなく、とても上手い具合に最終話までのお話が描かれていましたよね。

 

 

映画で改めて物語に触れて感じたことは、やはりこの作品の根幹は「過去と今と未来を巡る」物語だったということ。

 

このブログでは連載初期から繰り返し書いてきたテーマではありますが、自分の苦手やコンプレックスを乗り越え成長を遂げていく過程には、いつだって「過去」と「今」の対比がつきまといます。できないことができるようになったり、逃げていたことに向き合ったり。この過程には必ず対象となる「過去」があったわけですね。

 

 

そして、このテーマの"渦中"にあったのが四葉ちゃんと風太郎の二人です。

 

もちろん6人全員にドラマと成長があったことは殊更言うまでもなく、「〇〇の場合」という形式で個別に物語が展開されていたこともその裏付けであってそこに優劣などありません。

 

一花さんも二乃も三玖も五月も葛藤と不安を打ち破って成長し、風太郎との出会いを通じて人間的にもひとりの女性としても見違えるほど魅力的になった。原作1巻の頃と見比べればその事実をひしひしと感じますし、その点については今までにもブログで書いてきたとおりです。読者それぞれの読み方によって個々に印象深いエピソードもきっとあることでしょう。

 

四葉ちゃんエンドについて(©春場ねぎ・講談社/映画「五等分の花嫁」製作委員会)

 

とはいえ、対象となる「過去」をそれぞれ掘り下げていった時、その枷の重さをより深刻視していたのはやはり四葉ちゃんだったわけですよね。

 

なぜなら彼女は過去に大きな失敗を経験し、そのことがきっかけで自分だけではなく姉妹4人にも迷惑をかけてしまった(と彼女は思い続けてきた)経緯があるから。彼女にとっては一人分ではなかった。姉妹によって助けられ、姉妹のために生きようと決めたあの日から、四人分の重さもそこにはあったのです。

 

だからこそですよね。彼女の枷や負い目を解き放つことは、「姉妹」「家族」というテーマを含む本作において非常に重要なことだった。風太郎のことを想いつつも、姉妹を立てるために身を引く。それは決して『五等分』とは言えないから。誰もそんなことを望んでなどいなかったからです。

 

そんな四葉ちゃんの相反する感情は、「過去」を象徴する風太郎の幼なじみ・竹林さんの登場からも読み取れます。過去の風太郎を知り、彼に勉強を教えていたという存在が現れたことで、彼女の気持ちは揺らいでいく。思わず漏れ出た「私の方が上杉さんのこと...」という感情の発露は、彼女が「過去」の思い出に縛られていることの証左でした。

 

ゆえに僕は、四葉ちゃんが「過去の思い出」を振り切って今の自分を肯定していこうと歩みを進める決意のシーンを見た時、心が強く揺さぶられたんです。

 

もう君との思い出に頼らない

自分で自分の価値を探していくよ

 

過去と今と未来はいつだって地続きでその思い出がなくなることは決してない。本当に大切なものはいつまでも大切なままだから。それはそれできっと間違ってはいないのです。

 

でも、風太郎が七つのさよならを通して「昔のことより大切なのは今だろ」と気付いたように、四葉ちゃんもあの日の思い出をちゃんと昇華して、今...そして未来に向かって前向きにその想いを連れて行かないといけない。だって、それが彼女にとってのスタートラインになるから。そう思わされたからです。

 

もちろん『五等分の花嫁』には「思い出の子を五つ子の中から見つける」というミステリー的楽しみが提示されていたことは間違いありません。作者の春場ねぎ先生のインタビューでも触れられていましたし、僕もその要素を楽しんで読んでいましたから。作品を大いに盛り上げてくれた要素であることは言うまでもないでしょう。

 

でも、七つのさよならで「過去」に縛られる生き方からさよならをした風太郎と学園祭で思い出を昇華した四葉ちゃんの姿を描いたことで、「思い出の子を五つ子の中から見つける」というミステリーが主題にあるのではなく、「高校2年生の時に出会った五つ子の中から花嫁となる女性を風太郎が見出す」ことに物語の帰結があるとわかったんですよね。

 

始まりはまさしく運命だった。京都で風太郎に出会い、その後「特別」になろうと失敗して転校を余儀なくされた結果、その転校先で5年ぶりに運命の再会を果たす。風太郎との出会いで姉妹一人一人が成長を遂げていったことを考えれば四葉ちゃんの失敗もまた全員にとって意味のあるものであったし、無駄なことは何もなかった。

 

そうして再会し、学校生活を共にし、林間学校、家族旅行に修学旅行、そして学園祭。色々なイベントをこなしながら二度ない毎日を歩んできて、風太郎は「今」の四葉ちゃんに恋をした。

 

つまりは、過去に出会っていた子が誰であるかという点に目を向けることを辞め、今の出会いに運命的な意味を見出したわけです。だって過去がどうであれ、今ここにいる自分の気持ち、6人の関係がどこまでいっても全てだったからです。

 

もちろん、四葉ちゃん視点で見れば、風太郎に対する好意に関して過去の出来事が起因している部分は少なからずあるんだと思います。でもそれも含めて、「今」の彼女の気持ちがそういうものだったのだから、それは彼女の「今」だと僕は思ってます。過去がどうであれ、風太郎の力になりたいと思って彼を支え続けてきたのは他でもなく、再会を果たした後の彼女なのですから。

 

 

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そういう意味において、僕は四葉ちゃんENDにとても納得がいっていますし、心から素晴らしい結末だったと思っています。物語を外側からメタ的に読んだ場合と、登場人物の心情を追って内側から読んだ場合で多少感じ方は変わるかもしれませんが、映画を見て改めてそう感じた次第です。

 

 

個人的に印象深いポイント

 

 

最後に何点か言及しておきたいなと思ったポイントを。

 

一花さん可愛かった(©春場ねぎ・講談社/映画「五等分の花嫁」製作委員会)

 

原作の頃から大好きだったのですが、一時的に「誰も選ばない」という回答をしていた風太郎に対し、一花さんが「そういう素直な気持ちを大切にしなよ だから誰も選ばないなんて言わないで」と告げるシーン。

 

あそこ、映画で見ていても「一花さん大好きだ―!」ってなる個人的ツボなポイントでした。風太郎が素直な気持ちを以て答えと向き合おうと決意した一要因でもあったと思いますし、花澤香菜さんの可愛いさとお姉さん感の同居したボイスであのシーンが見れて本当に嬉しかったです。その後のキスもよかった。感謝感激!

 

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もう一つ。原作を読んでいた頃から言語化が不十分だったかなと感じていた部分でもありますが、五月の存在って恋愛軸で見た時どういう位置づけなのかなっていう点。

 

ここに関しては色々思うところがある方も多いんだと思います。特に五月推しだった方には。要所要所で風太郎との関わりの深さが描かれていながらも、恋愛軸という意味においては、他ヒロインと比べて見せ場が少なかったことは確かに否めませんので。

 

<長編のエピソード(恋愛軸)>

花火大会:一花さん

林間学校:全員

七つのさよなら:二乃

最後の試験:個別エピソード①

家族旅行:三玖

シスターズウォー:一花さん・二乃・三玖

過去編:四葉ちゃん

学園祭:個別エピソード②

 

とはいえ、好意的に解釈をするのならそれが五月のスペシャリテでもあったのかなと個人的には思う面もあります。

 

 

五月のスペシャリティ(©春場ねぎ・講談社/映画「五等分の花嫁」製作委員会)

 

映画では尺の都合で原作ほどフィーチャーされてなかった点が多少残念(今回の映画で言えばここくらいですかねちょっと残念だったのは)ではありましたが、五月が風太郎に対する淡い気持ちを自覚したのは、風太郎と四葉ちゃんが両想いであるとわかった後から。

 

その理由はおそらく、彼女が恋愛感情というものを実感として理解できていなかったという点が一つと、中野家の父親になると言っていた風太郎と対になるように、五月というヒロインが「母親役」のポジションだったからというのもあるのかもしれません。

 

つまりは、恋愛という側面ではなく頼れる人という意味での"親愛"として風太郎に好意を持っていた彼女が、晴れて両想いの関係になった四葉ちゃんと風太郎の姿を見たことで、自分の奥底にある好意の源泉が恋に根差していたと気付くに至る........。という感じなのかなと。

 

その点において五月が風太郎に想いを打ち明けず、恋愛に疎かった彼女が自分の心情を理解したこと、気付きを得たことでより一層精神的に大人に近づけたという事実には、一種の合理性があったとは思います。

 

まぁ、そうは言ってももっと恋愛的要素で感情を動かす五月の姿が見たかったって意見があることも同意はできますので、五月の立ち位置については各々思う部分があっても良いところなのかなと。読み手の好みにもよってくる部分だとも思いますし。

 

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そんなこんなで本当に最後にはなりますが、総じて原作最終回を読んだ時と気持ちは変わらず、最高の映画だったと思います。

 

この作品と共に駆け抜けてきた日々、楽しかった思い出、全部全部未来に繋いでまた今日から前を向いて歩いていきたいですね。夢のような楽しい日々を本当にありがとうございました!

 


 ※本記事にて掲載されている情報物は「『五等分の花嫁』/春場ねぎ/週刊少年マガジン」より引用しております。

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